ため息と涙でできているもの


 ガチ恋ってなんやねん。

 いつからだ。いつからこの言葉はこんなにカジュアルに使われるようになったんだ。本気(ガチ)な恋愛感情です、というやつなんだろうけど、何だかどうにもしっくりこない。業界を変えると「リアコ」という言葉になったりもするらしい。リアルな恋の略だろうか。

 しかも聞くところによるとガチ恋とは大きく分けて二種類あるらしい。まずこの地点でまじかー! となる。そのひとと付き合いたいタイプと、そのひとの理解者になりたいタイプなのだそうだ。なるほどわからん

 付き合いたい→(わかるよガチ恋だね)

 理解したい→(それはファンでは?)

 私にとって「ガチ恋」という言葉は、あくまで相手の連絡先を知り、お互いプライベートで会うようになり、リアルな恋愛関係になって初めて適用されるものです。なのでしょっちゅうガチ恋を名乗るかたがたに対して「繋がってから出直してくれないか! 一般人女性A!!」と拳を振り上げる羽目になる。
 ひとのガチ恋話は面白いし、聞いたり読んだりするのは大好きなのだけれど、やっぱり話を聞きながら「それは違うのでは……?」という思いが拭えないでいる。他人のガチ恋を断ずるなと言われるとその通りだなぁと思うのだが、どうにも腑に落ちない。そこでこの言葉について考えるのがこの記事です。ここまで読んだあなた、これは私のガチ恋記録の話ではありません! 期待していたのなら残念だったな! それを書くならはてなじゃなくて有料noteでやります!(えぐい!)



 考えるにこの「ガチ恋」という言葉、「本気(ガチ)」だったり「リアル」だったりの修飾がどこにかかるかに大きな違いがあるのではないだろうか。つまり恋をする相手をリアルな現実の「対象者」として捉えているガチ恋がある一方、他方ではその対象が何であるかは問題ではなく「恋のような自分の気持ち」に本気をかけているのでは。そう思うと色々と納得がいく。

 そのひとのことが好きで好きでたまらなくて、四六時中そのことで頭が一杯で、冗談抜きで世界が輝いて見えて、吐きそうなほど悩んで苦しくて、彼の目に入る姿が少しでもマシなものであろうと努力したり、どんな形でもいいから一番になりたくてあれこれ考えたり---そういう、ただの「ファン」と呼ぶには少しばかり人前に出しづらくて、ドロドロとしていて、どこか後ろめたくて、そんなに綺麗とは思えない。そういう感情には覚えがある。あれはなんだったのかと言われると、何だろう、やっぱり「恋」に近いものではあったのだろう。だからそこに「ガチ恋」と名付けたひとたちの気持ちは正直わかる。わかるんだけど、でもやっぱり、それは「恋」に似て非なるものだと思う。
 特に生身の人間が相手だと、ちょっとでも特別な存在になりたいみたいな感情が出てくる。そのこと自体は、それほど特殊なことではない。そこに単なる「ファン」ではなく「ガチ恋」という名前をつけることで、俺はヴェルタース……ヴェルタースオリジナル*1だ……と、ある種の安心を得るのかもしれない。ああまたここで言葉に齟齬が生まれていく……溝は深い……。


 名前をつけるってなんて大変なことなんだろう。それが形のない、得体の知れない感情なら尚のこと。なぜこの言葉はこんなに奇妙な多面性を持っているのか。まったく人によって定義が違いすぎて、誤解しか招いていない気がする。
 ある人はこれを「最高の独り相撲*2」だと喩えていた。そう言えば私は過去に「決して叶うことのない片思い」だと表現したような覚えがある。やっぱりガチ恋じゃねえか、と言われると身も蓋もない。こうなると最早「言葉に対する感覚」みたいな話なのかもしれないとすら思えてくる。私がおそらく一生「バンギャ」という単語に、言いようのない受け入れ難さを抱き続けるのと同じような。いやバンギャルなんですけど、ギャって言われるのが本当に嫌。最近は、ばんぎゃるって書くのがマイルドかわいいなと思っている。本質は変わらないのに表現で受け止め方が変わる例。一方ガチ恋は、恐らく本質はまるで違うものなのに同じ言葉に収められているせいでおさまりが悪い例。なのだろう。



 この話がさらに面倒なのは、相手が生身の人間相手だという点にある。下手に実在することで「付き合いたいタイプのガチ恋には救いがある」みたいな話になるのだけれど、私がガチ恋を断罪する上でプライベート云々に拘る明確な理由もそこだ。

 我々が普段から見ているのは、あくまでの「ステージ上のあのひと」でしかない。私たちは、彼らが板の上で見せる姿しか知らない。知りようがない。そして舞台上は其れみな虚構。これが私の、観賞における意識の根底にある。
 舞台にあるもの、それは彼らが見せたいもの。
 私が見ているもの、それは彼らが見せているもの。
 あなたの焦がれる「付き合いたい人間」など、この世のどこにも存在しないのだ。それはあなたが、あなたの頭の中で作り上げた理想のナニカでしかない。中の人とその虚構とは、まったく別の生き物だ。だからこれは「決して叶うことのない片思い」なのだ。いやわかる皆まで言わんでいい、恋なんてそもそも思いこみで始まってそれを現実に叩きつけて修正して修正していく作業だ。だがこの場合の恋は成就のしようがない。というか、成就した地点でそれはまったく別のものに形を変えてしまう*3
 だから面白いし、だから拗れる。理解者であれば一緒に居られるという狂ったような気持ちも、相手を自分の理想に当てはめようとする気持ちも、きっとこの「終わりがない」ものに何とか形を与えたくて、迷いこんでしまうものなのだろう。申し訳ないがここは想像でしかお話ができない。経験者の言葉に比べるとまぁなんと説得力のない他人事のような文章か。

 世の中には無機物を愛するひともいる、虚構に恋をする人もいよう。私たちが感じているあの気持ちはきっと、偽らざる本物だ。熱に浮かされたように、狂おしく何かを思うあの気持ちをニセモノだと断ずることは私には出来ない。けれど、その相手は、対象は、どうしようもなくニセモノなのだ。
 恋のようで恋でなく、恋よりも激しい気持ちを抱かせてくれる。そんな相手に、バンドに出会えたのなら、それはきっと一生モノだ。偽物相手だからこそできる色恋もありましょう。幸か不幸か、そんなどうしようもない気持ちならば知っている。知っているからこそ、そんなものと出会ってしまった気持ちを、出来合いの言葉でラべリングするだけで良いのかなぁと思うのだ。誰かが感じているかも知れないやり場のない想いを、「ガチ恋じゃん」なんて言葉で括りたくもない。


 名前をつけるって、本当に大変なことだ。私が優秀なコピーライターならここで一発どーんと流行語を作成してやるのだが生憎そういった才能は皆無ときてる。
 だからせめてガチ恋だからなんて言葉で逃げんな! 向きあえ! と言おう。
 もっともっと、自分の「好き」に真正面から向きあってみてほしい。もう少しばかり、自分の気持ちを丁寧に扱ってやってほしい。折角ライブハウスなんていう、「それ以外のことを考えなくてもいい場所」に、身を置いているのだから。

 あなたがあなたの気持ちを、納得してその言葉に収めるならそれはそれでいい。でもやっぱり私は、私の抱いていた気持ちを「ガチ恋」と呼ぶのも呼ばれるのも嫌だなあと思う。ただ、やべーばんぎゃるの話を聞くのはすげー好きなので、ガンガンお話ししてください。

 そうだな。テーマはやっぱり、あなたの「好き」の在り方の話がいいな。


 私のそれは、まぁいずれまたどこかで。








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*1:私もまた、特別な存在だからです

*2:http://coralaroc68.hatenablog.com/entry/2017/08/13/234431

*3:それは往々にして現実と呼ばれる