浸かってはいない沼の話

 

 一応、自我としての私は未だ「ばんぎゃる」なのですが、バンドを追うこととかそれに付随することに割とかなり疲れてしまったのでいまはあんまりばんぎゃるをしていないです。で、全国ツアーだわーい! 遠征だーいすきー! 夏は海! 冬は元気! 新幹線を異常な率で止める能力者!*1 系のアクティブクソ野郎な私がふっと現場にいくことをやめたときに何を思ったかと言うと。


「お金が余ってる!」


 余ってない! 何も余ってないから! 落ち着いて!
 いやでも実際、あれーボーナス何に使おうかなーってなったんですよ。だってまずツアーって発表されてチケ発で10万飛ぶじゃないですか。そのあと各所回る足代と宿泊費で10万飛ぶじゃないですか。それがないんですよ。おっと20万余ってる(余ってない)。
 時間にもお金にも余裕ができると実施されるのが『突撃☆隣の沼探訪』。まぁもともと演劇は好きだったし興味もあったのですが、いかんせんばんぎゃるをやっていると時間もお金もそっちに吸い取られていましたからそりゃ余力が出たらそうなるよね。あと、意外と周囲にいる。気づいたらテニミュ勢に取り囲まれていたりする。それとメサイアな。

 そこでまずどこから手を出そうって考えたとき、やっぱり刀かなーと思った訳です。ミーハーだから。そもそもばんぎゃる時代も現場至上主義的なところがあったので、DVDから予習とかそういうことは一切頭にありません。まずは現場! 次に現場!
 なんと幸いなことにチケットが手に入ったので、まじで刀剣の名前すらうろ覚え、役者の名前はすずきひろきぐらいしか分からないです! という状態で人生初の2.5次元現場に赴きました。俗に言う刀ステ初演ってやつです。
 世間のひとはわかりませんが、私はこうした『真っ白な状態にいきなりナマモノを叩きつける』という行為が結構好きです。バンドもそうなんですけど予習ってそんなに必要かな、と思うことがままあります。勿論、ある程度の下地はあったほうが楽しめることは多いです。それでもなお、私は余分な情報なしに目の前にぶちまけられたものだけで自分が何を思うのかを知りたいという欲求に勝てない。知識は後付けもできるし、後々に「あれはそうだったのかー!」って繋ぎ合わせていくのもパズルみたいで面白い。まぁかなり色々なものを取りこぼしてる気がするので、特におすすめはしません。

 なにせその初体験も、すずきひろきすげえな! ぐらいしか感想が言えなかった。いや、凄かったんですよ鈴木拡樹。凄いとは聞いていたけど凄かった。ちょっと他の役者とは存在が違った。あ、これが次元が違うってやつかと思った。ただ、いかんせん元のゲームをやってないので「推しがー! 実装された推しがー! 動いているー!」という2.5次元特有とも言われる感動は皆無でした。なんて贅沢なんだお前は。
 それでも鈴木拡樹の凄さが凄すぎて、気が付いたらその直後に彼が出演する公演のチケットを取っていました。自分のこういうフットワークの軽さ、嫌いじゃないぜ。
 この辺りからじわじわと、周囲からの絡め手が本格化していきます。染さまの顔面に抗えず「この顔になりたい2016アワード」を差し上げた辺りである映画の公開記念イベントに行くことになりました。壇上で顔の良い男たちがキャッキャしておったわ。何だこれわ。

 

 そんな私にも遂に訪れるのです。

 そう、『推し』が。

 

 2次元の推しが、2.5次元に実装されたあの衝撃が!

 

 ばんぎゃるを上がり始めたみんなたちの行き着く先は、大別すると声優、わかてはいゆー、ジャニーズ or LDH。そしてソシャゲに課金してるという偏ったイメージがあります。私も例に漏れずソシャゲというやつに初めて触れ『あっ。これが、推し……』になっちゃったんですよねそうそうあんさんぶるスターズ!って言うんですけど。周りから散々「お前はKnightsか生徒会長。ていうか多分生徒会長」と言われ続け蓋を開けたらまんまと「あーーーーーーー」って落ちていった先が天祥院英智って言うんですけど。

 あんステTYM*2の情報が出た瞬間、予習とか好きじゃなーいと言ったその口で「誰ですか! 前山剛久って誰ですか!!」と叫びながら推しを演じる役者さんについて調べ上げ、直近の舞台のチケットを粛々と押さえました。結果としてお芝居はとても面白かったし、実際目にしてああこの方が演じる英智さまはきっと素敵だと、、、理性があったのはここまでです。

 あれは、理性が蒸発する。

 いい加減私はびじゅあるけいのことを2.5次元だと思っていたのですが、認識が甘かった。2.5次元とはこういうことだったのか! 次元の壁を越えている! 現実に実装される非実在推し! なんだこれは! 知らない世界だ! すごい! えっ、推しが! 推しがファンサしてくれる! 推しが! あああああ!
 推しを前に理性などないのでTYMは8公演入ったんですけど、ほんとツアーを回るばんぎゃると性根はおんなじなんだなと思いました。多ステしたからこそ気づくことのできる差分! 大阪2日目の昼から生徒会のシーンの演技プランが変わって、その日の夜公演から精度がはね上がったのが個人的にめちゃめちゃグッときました。これだから現場ってやつは。

 


 まぁ正直、「キャラを借りている」とか「~を生きる」とかその辺のお作法のことはまだ良くわかっていないし、推しの仕事を見るために舞台に行ってんだよというファンの方の言説にもなるほどと思うだけでやっぱり良くわかってないです。スカスカの現場にもまだぶち当たってないし、敢えてあまり深く考えないようにしていることは多くあります。言い出したらキリがない……やだやだ、そういうのもういいから。

 だから私の目下の目標は「推しを作らない」ことです。芋づる式に掘っていくのは楽しいです。どんどん解像度が上がってゆくのも愉快です。あと友人たちが好きなはいゆーも自然と覚えます。わかってる、わかってるんだ推しを作ったときの楽しさはわかってるんだ。でも私は浅瀬でちゃぷちゃぷしていたいの! いやあ、みんな顔がいいなあ! 以上だ! それ以上のことは考えたくない! 私は上澄みの綺麗なところだけを啜っていくからよろしくな!!

 

*1:年に数回は致命的な遅延にぶち当たります

*2:あんさんぶるスターズ!on stage の二作目、Take Your Marksの略称

拝啓、お元気ですか


 みなさんお手紙、書いてますか?

 デジタル時代の昨今、今どき手書きで定期的にお手紙を書いているなんて本当に限られた人種だと思うのですが、そのひとつは間違いなくばんぎゃるでしょう。TwitterのDMでも! LINEでも! ファンメールでもなく! SO, ファンレター!


 プレゼントよりも手紙が嬉しいよ、というのがあちら側からの模範解答のようになっているような気がします。実際そうなんだろうなとか、どこまで本音なのかとか、本当に読んでるのか、いやいっそ読まずに捨ててほしいとか、まぁ色々思うことはありますが、書いて渡したという地点でこちらのやることは終わっていますしあれこれ考えたところで仕方がない話です。
 それでもお手紙を書くという行為が、私は好きです。
 究極の自己満足だな、とも思います。
 酷い時などは月に何本、週に何本もあるライブの度に毎回お手紙を書いていました。何をそんなに書くことがあるのか。まぁここまで来るとあまりに極端ですが、でも実は私それまでは基本的に「ファンレターなんて書かない」タイプのばんぎゃるでした。そんな私がどうしてこんなに手紙を書くばんぎゃるにジョブチェンジしたのか! 一体どんな教育と営業を受けたというのか! ……みたいな話はしません(しません)。

 ただ、自分が初めて「このひとに手紙を書きたい」「思っていることを伝えてみたい」と感じたときのことは、明瞭に覚えています。そのひとはその頃、きっとこのシーンに対しても自分に対してもメンバーに対してもファンに対しても、とにかく周りのすべてに憎悪を燃やしていて、その熱でもってステージに立ち続けていました。尤も私にそう見えていただけで、実際には違ったのかも知れません。後年のインタビューなどを読むとやっぱりそうだったのかな、とは思いましたが後付けでしかないですしね。
 どうして私がお手紙を書こうと思ったかと言うと、伝えたかったからです。何を伝えたかったか。あなたのことを好きな人間がちゃんといるよ、ということを伝えたかった。世界の全てを燃やし尽くしてしまいかねないような人に、それでもそうやってあなたが作り出すものが、私はとてもとても大好きだと伝えたかった。どう繕ったところで自己満足だし身勝手な行為でしかないのですが、それでもただ見ているだけでは、どうしてもどうしても自分の中で収まりがつかなかった。そんな風に思ったのは初めてのことで、それは何故か泣きたくなるほどに強い気持ちでした。
 そうやって初めて書いた手紙に対して、そのひとから何か特別な反応があったとか、そんな話は残念ながら一切ありません。それから何年にもわたってそのひとに宛ててお手紙を書き続けましたが、私の内容はいつも「ありがとう」と「だいすきです」だけでしたし、そのひとは頂いたものを写真に撮ってブログにあげるといったことをほとんどしないひとでした。これもどこかのインタビューで「『新幹線の中で書いているので、字がガタガタになって申し訳ないです』って手紙に書いてくれるひとがいるんだけど、そんなことはない。嬉しいです」みたいな話をしていたことは覚えています。その頃の私はしょっちゅう移動中にお手紙を書いていたしそんなことを書いたこともあったので、おっと思ったことがあるぐらい。本当に、そのぐらい。

 一度お手紙を書く癖がつくと、そのひと以外にも結構気軽に手紙を書くようになります。書けるようになる、とでも言うのでしょうか。そこで驚いたのは、意外とわかりやすく反応してくれたり、お礼を言ってくれたり、この前書いた内容をインストアで直接振ってくれたり、ちゃんと読んでるよということを向こうから伝え返してくれたりもするんだ、ということでした。反応がなくて当然だと思っていたのでとんだボーナスステージ!状態です。
 そのひとはただ黙って受け止めてくれていた。私はそれが心地良くて、そして完全にそのことに甘えていました。バンドが解散発表をしたとき、一度だけ怒りに任せた手紙を書いた覚えがあります。今思えばあれは悲しかったんだということがわかりますが、だからってそんなことを伝えるべきではなかったし、それすらもそのひとはきっと、黙って受け止めてくれていました。いつからか私は、必ず「ありがとう」を書くことにしていました。楽しかったです、ありがとう。またこんなものを読んでくださって、ありがとう。好きで居させてくれて、ありがとう。
 そんな言葉じゃとても返しきれてないなあと、ずっと思いながら。

 

 


 最近になってわかったのは、いわゆる『推し』という概念に近い相手には、不思議と何かを伝えたいとは思わないということです。とにかく推しにはこちら側を認識して欲しくないというか、私のことなど路傍の石ぐらいに思っていてほしいというか、何だ、そう、これが推すという概念!!! というお気持ちへの気付き。そう考えるとわたくし、かれこれ10年ほど推してる相手がおりますが、本当にこちら側については関知してほしくないしする気配もないところが最高。そういう感情もある。ということを説明するのに、やっぱり名前がついてるって便利ですね。

 

 


 因みにお手紙を書くときに、私が絶対にこれは守ろうと思っていたことは、きちんとした言葉を使うこと。それから、「ほしい」ではなく「あげる」文章を書こうということ。その二点です。別にただのマイルールみたいなものなので、だからどうってことはない話です。

 どこかのカフェで懲りずにまたぞろお手紙を一生懸命書いていると、異国のハンサムから「ラブレターを書いているの?」と訊ねられたことがあります。そうだね~と答えると、にっこり笑いながら「君のようなひとに手紙をもらえる相手はとても幸せだね」と返されました。ヒュ~! これだからハンサムってやつはよ~!

 

ため息と涙でできているもの


 ガチ恋ってなんやねん。

 いつからだ。いつからこの言葉はこんなにカジュアルに使われるようになったんだ。本気(ガチ)な恋愛感情です、というやつなんだろうけど、何だかどうにもしっくりこない。業界を変えると「リアコ」という言葉になったりもするらしい。リアルな恋の略だろうか。

 しかも聞くところによるとガチ恋とは大きく分けて二種類あるらしい。まずこの地点でまじかー! となる。そのひとと付き合いたいタイプと、そのひとの理解者になりたいタイプなのだそうだ。なるほどわからん

 付き合いたい→(わかるよガチ恋だね)

 理解したい→(それはファンでは?)

 私にとって「ガチ恋」という言葉は、あくまで相手の連絡先を知り、お互いプライベートで会うようになり、リアルな恋愛関係になって初めて適用されるものです。なのでしょっちゅうガチ恋を名乗るかたがたに対して「繋がってから出直してくれないか! 一般人女性A!!」と拳を振り上げる羽目になる。
 ひとのガチ恋話は面白いし、聞いたり読んだりするのは大好きなのだけれど、やっぱり話を聞きながら「それは違うのでは……?」という思いが拭えないでいる。他人のガチ恋を断ずるなと言われるとその通りだなぁと思うのだが、どうにも腑に落ちない。そこでこの言葉について考えるのがこの記事です。ここまで読んだあなた、これは私のガチ恋記録の話ではありません! 期待していたのなら残念だったな! それを書くならはてなじゃなくて有料noteでやります!(えぐい!)



 考えるにこの「ガチ恋」という言葉、「本気(ガチ)」だったり「リアル」だったりの修飾がどこにかかるかに大きな違いがあるのではないだろうか。つまり恋をする相手をリアルな現実の「対象者」として捉えているガチ恋がある一方、他方ではその対象が何であるかは問題ではなく「恋のような自分の気持ち」に本気をかけているのでは。そう思うと色々と納得がいく。

 そのひとのことが好きで好きでたまらなくて、四六時中そのことで頭が一杯で、冗談抜きで世界が輝いて見えて、吐きそうなほど悩んで苦しくて、彼の目に入る姿が少しでもマシなものであろうと努力したり、どんな形でもいいから一番になりたくてあれこれ考えたり---そういう、ただの「ファン」と呼ぶには少しばかり人前に出しづらくて、ドロドロとしていて、どこか後ろめたくて、そんなに綺麗とは思えない。そういう感情には覚えがある。あれはなんだったのかと言われると、何だろう、やっぱり「恋」に近いものではあったのだろう。だからそこに「ガチ恋」と名付けたひとたちの気持ちは正直わかる。わかるんだけど、でもやっぱり、それは「恋」に似て非なるものだと思う。
 特に生身の人間が相手だと、ちょっとでも特別な存在になりたいみたいな感情が出てくる。そのこと自体は、それほど特殊なことではない。そこに単なる「ファン」ではなく「ガチ恋」という名前をつけることで、俺はヴェルタース……ヴェルタースオリジナル*1だ……と、ある種の安心を得るのかもしれない。ああまたここで言葉に齟齬が生まれていく……溝は深い……。


 名前をつけるってなんて大変なことなんだろう。それが形のない、得体の知れない感情なら尚のこと。なぜこの言葉はこんなに奇妙な多面性を持っているのか。まったく人によって定義が違いすぎて、誤解しか招いていない気がする。
 ある人はこれを「最高の独り相撲*2」だと喩えていた。そう言えば私は過去に「決して叶うことのない片思い」だと表現したような覚えがある。やっぱりガチ恋じゃねえか、と言われると身も蓋もない。こうなると最早「言葉に対する感覚」みたいな話なのかもしれないとすら思えてくる。私がおそらく一生「バンギャ」という単語に、言いようのない受け入れ難さを抱き続けるのと同じような。いやバンギャルなんですけど、ギャって言われるのが本当に嫌。最近は、ばんぎゃるって書くのがマイルドかわいいなと思っている。本質は変わらないのに表現で受け止め方が変わる例。一方ガチ恋は、恐らく本質はまるで違うものなのに同じ言葉に収められているせいでおさまりが悪い例。なのだろう。



 この話がさらに面倒なのは、相手が生身の人間相手だという点にある。下手に実在することで「付き合いたいタイプのガチ恋には救いがある」みたいな話になるのだけれど、私がガチ恋を断罪する上でプライベート云々に拘る明確な理由もそこだ。

 我々が普段から見ているのは、あくまでの「ステージ上のあのひと」でしかない。私たちは、彼らが板の上で見せる姿しか知らない。知りようがない。そして舞台上は其れみな虚構。これが私の、観賞における意識の根底にある。
 舞台にあるもの、それは彼らが見せたいもの。
 私が見ているもの、それは彼らが見せているもの。
 あなたの焦がれる「付き合いたい人間」など、この世のどこにも存在しないのだ。それはあなたが、あなたの頭の中で作り上げた理想のナニカでしかない。中の人とその虚構とは、まったく別の生き物だ。だからこれは「決して叶うことのない片思い」なのだ。いやわかる皆まで言わんでいい、恋なんてそもそも思いこみで始まってそれを現実に叩きつけて修正して修正していく作業だ。だがこの場合の恋は成就のしようがない。というか、成就した地点でそれはまったく別のものに形を変えてしまう*3
 だから面白いし、だから拗れる。理解者であれば一緒に居られるという狂ったような気持ちも、相手を自分の理想に当てはめようとする気持ちも、きっとこの「終わりがない」ものに何とか形を与えたくて、迷いこんでしまうものなのだろう。申し訳ないがここは想像でしかお話ができない。経験者の言葉に比べるとまぁなんと説得力のない他人事のような文章か。

 世の中には無機物を愛するひともいる、虚構に恋をする人もいよう。私たちが感じているあの気持ちはきっと、偽らざる本物だ。熱に浮かされたように、狂おしく何かを思うあの気持ちをニセモノだと断ずることは私には出来ない。けれど、その相手は、対象は、どうしようもなくニセモノなのだ。
 恋のようで恋でなく、恋よりも激しい気持ちを抱かせてくれる。そんな相手に、バンドに出会えたのなら、それはきっと一生モノだ。偽物相手だからこそできる色恋もありましょう。幸か不幸か、そんなどうしようもない気持ちならば知っている。知っているからこそ、そんなものと出会ってしまった気持ちを、出来合いの言葉でラべリングするだけで良いのかなぁと思うのだ。誰かが感じているかも知れないやり場のない想いを、「ガチ恋じゃん」なんて言葉で括りたくもない。


 名前をつけるって、本当に大変なことだ。私が優秀なコピーライターならここで一発どーんと流行語を作成してやるのだが生憎そういった才能は皆無ときてる。
 だからせめてガチ恋だからなんて言葉で逃げんな! 向きあえ! と言おう。
 もっともっと、自分の「好き」に真正面から向きあってみてほしい。もう少しばかり、自分の気持ちを丁寧に扱ってやってほしい。折角ライブハウスなんていう、「それ以外のことを考えなくてもいい場所」に、身を置いているのだから。

 あなたがあなたの気持ちを、納得してその言葉に収めるならそれはそれでいい。でもやっぱり私は、私の抱いていた気持ちを「ガチ恋」と呼ぶのも呼ばれるのも嫌だなあと思う。ただ、やべーばんぎゃるの話を聞くのはすげー好きなので、ガンガンお話ししてください。

 そうだな。テーマはやっぱり、あなたの「好き」の在り方の話がいいな。


 私のそれは、まぁいずれまたどこかで。








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*1:私もまた、特別な存在だからです

*2:http://coralaroc68.hatenablog.com/entry/2017/08/13/234431

*3:それは往々にして現実と呼ばれる

グランギニョルに寄せて


 美しい者たちが作り上げる悲劇喜劇を眺めたいという気持ちは私にもある。観終えたあと、確かに強くそう思いました。中でも悲劇Tragedy、残酷劇Grand Guignolの持つ魅力には抗いがたいものがある。
 物語に頭を殴られてお気持ちがぐちゃぐちゃになる感覚は堪らない。大阪初日、椅子に深く腰掛けたまま周りのひとたちが次々と立ち上がっていく光景をぼんやりと眺めていました。人間、強い衝撃を受けると立ち上がることすらままならなくなるものなのだと久しぶりに思い知った心地で。






※これはピースピット2017年本公演『グランギニョル』に関する感想です。
※末満健一氏によるTRUMPシリーズに関するネタバレがバンバン出てくるので未見の方はお気をつけください。バンバン書いていきます。





 


 前知識として見ておこうとTRUMPをまず見たのですが、あの物語に登場するダリ・デリコ卿と染谷さんのヴィジュアルイメージがまず全然結びつかなかったのですよね。冒頭のダンスの美しさ。そこから始まる、まるで踊りのような優美な殺陣。この世界に生きるのはこうした生き物であると、まず真正面からグーで殴られるみたいな演出だなぁと思う。そこからややあって、ああダリ・デリコ卿はダリ・デリコ卿であってダリ・デリコ卿以外の何者でもなかった! と思い知る訳です。デリコパーンチ。あ、これめっちゃダリ・デリコだ。

 三浦さんのゲルハルト様は本当にこの世のものじゃないみたいな美しさでした。近くで見ればみるほど、まったくどんな身体の使いかたをされているのですかと思うような立ち居振る舞いが、ますます彼を浮世離れさせていました。全体的に動きが曲線的で、練習中はコルセットを締めてらしたという重心の取り方が特徴的。そして私が一番ひぇとなったのは、あの歩き方です。よくモデルは一本の線上を歩くようにと言われますが、ゲルハルト様の歩き方は正面から見るともはや一本の線を通り越して足がX状にクロスすらしているのがわかります。足元まで隠れるようなコートの下、外側へ半円を描くように歩を進めることで一々裾がふわりと翻る。更にダリと向きあう際にはいつも片足を引き、殊更に腰を反らせてお立ちになられるのですが、そうして後ろに引いた足でやはり衣装の裾が常に広がっているようなシルエットが作られるんですね。ゲルハルト様の衣装は時折ドレスのようにも見えたのですが、これはもう全てりょうすけみうらの見せ方の所為なのだと気づいた時の末恐ろしさ。
 その立ち方にはもうひとつ、ゲルハルトとダリの関係性も含まれているのかなとも思いました。ゲルハルト様のお気持ちという方が近いのかな。彼は自分より立場の低い者であれば物理的にも精神的にも容赦なく見下しますが、ダリとだけは「対等でありたい」と望んでいます。馬鹿にされることは許しがたいが、自分が彼を見下すこともしたくはない。だからこそ、身体に無理を強いるような体勢を取ってなお、ダリと比肩したい。対等な目線であろうとしていたのかなと。そんな風に私には見えました。実際、カーテンコールで真っ直ぐに並んで立つ染谷さんと三浦さんの身長差にびっくりします。劇中は本当にそんな風には見えないから。
(余談ですが、このゲルハルト様の歩き方や立ち方を自分で再現してみると本気で数分と保ちません。貴族としての優雅さにも筋肉は必要……!!)

 あなたは空っぽだと突きつけられ、最愛の者を失い、自分の罪をも最も知られたくない相手の前で暴露され、そうして地面に這いつくばるゲルハルト様は、それでもやはりとても美しいと思いました。ゲルハルトはダリに向かって「貴卿は生まれながらにしての貴族なのだ」と仰いますが(そしてこれはまた、ウルがソフィに言った台詞とも同義なんですよね)、ゲルハルトは自身がそれに相応しくあらんとすることで貴族たりえたお人なのでしょう。それが本来の、心底自分の意志で望むことであったかどうかはさておいて。そんな彼の空洞を満たしたのは、やはりここでも「ダリと対等であろうとする自分」だった。力なく項垂れたゲルハルトがダリに発破をかけられ再び立ち上がるまでの演技は、さほど長いものではありません。少しでも目を離せば「ゲルハルト様、立ち直りもお早いですね!」となりがちなあのスピード感で、三浦さんはしっかりとダリの言葉を飲み込み再び己を奮い立たせるまでを表現してらっしゃいました。大千秋楽で私が一番心を動かされたシーンです。
 だからゲルハルトがフリーダを殺めてまでダリを守ったのは、もしかすると半分は自分の為だったのかも知れない。吸血種の未来のために彼を失う訳にはいかなかったと、卿はきっとお認めにはならないでしょうけれど。

 まあフリーダ様には生きていてほしかったですけれど! という感情を観客が抱くところまで含めて最高の殺し方でした。


 すごく取りとめなく、色々なことを考えました。たとえば繭期の三人について。キキは誰のことをも愛してしまうけれど、それが自分の繭期の症状だということを誰よりも自覚している。「永遠に繭期なら、ふたりのこともずっと愛していられるのに」という台詞の物哀しさには、繭期じゃなくなればこの愛おしく思う気持ちもきっと消えてしまうのだという予感があった。けれど最後の最後で、キキはその口で「愛してるわ。繭期じゃなくても、愛してる」と告げるんですよ。その後の彼女を継ぐキャラクターが誰からも愛されないというのもまたその対比なのでしょうけれど。
 春林さんと歌麿さんは「彼方から来訪し、また彼方へと去る異邦の者」ですが、それを客席の通路を通って現れ同じく去ることで表現されているのが個人的にはすごく好きでした。偶々初日の席がそのおふたりの通る通路側の席だったため、余計にその印象は強烈でした。あと、ひとに言われるまで黒猫の告げる「事件の途中で死亡したヴァンパイアハンター」の万里という名前が、臥万里と同じということに気づきませんでした。何故ならば! 『ガヴァンリ』というワンネームの音で認識していたからです! 『ばんり』で区切られるとわからなかったよ!
 マルコ・ヴァニタスと呼ばれていた人物について。しょっちゅう何かに蹴躓きながら舞台に乱入してくるその様子は、何となくTRUMPのクラウスを彷彿とさせるな、とふと思いました。ゲルハルトのしたことについて激昂していたのは、彼のなかに残っていたウルだったのでしょうか。きっとダミアン・ストーンの計画では、ウルなんて人格はとっくに消えてるはずだった。彼が「予定外」としたのは「捜査本部がダリコ家に置かれたこと」でしたが、これにより必然的にスーと顔を合わせることになり、その結果としてギリギリまでウルは溶けて消えることなくスーのことを守り通したのかな。私はウルが完全に消えたのはきっと、スーが死んでしまったその時だったと思います。
 と、ここまで書いてようやく「ああ! これはやっぱり愛の話だ!」と思っています。喜劇的な、幸福な結末だけが愛の形ではないのだから。


 だとするならやはり幼子のウルに呪いをかけたのはダミアン・ストーンそのひとだ。君もまたグランギニョルの登場人物。身体はマルコ・ヴァニタスでありウルだけれど、血が繋がっているだとかそんな感傷はきっとダミアンにはないでしょう。だから「その子はお前の子だぞ」というダリの台詞に微塵も反応しない。そんな呪いに抗うようにダリは最後にウルを噛む。相反するイニシアチブについてのバルラハの解説が嫌でも頭の中をよぎります。でもこれもよくよく考えるとヨハネス卿に対するイニシアチブがダミアン・ストーンの死によって解けたということは、ウルに対する呪いとも言えるイニシアチブもなくなっているんですよね。なくなってるのかな……死後も続くほうのイニシアチブだったらどうしよう……。まで考えて、ああだからダリは敢えて消えているかも知れないイニシアチブを上書きしようとしたのかなとも思いました。
 それにしたって同じ言葉を繰り返すという手法がめちゃくちゃ好きなので、あのシーンの染谷さんの演技はすごく好きです。力強く、希う、優しい声色。



 大千秋楽の日替わりシーン---アドリブの場面は、総括と言うかこれまで見てくださった観客へのファンサービスの意味合いがとても強いのだなぁと見ていて感じました。ともすれば冗長というかテンポ感が悪くもなるので良し悪しなのかなぁとは思いますが、ダリがマルコを動く椅子扱いにして登場し叱責されるシーンで、フリーダ様まで悪ノリして仲良くマルコの上に乗られたのには流石にグッと来てしまいました。まるでif世界のトゥルーエンドみたいだったんですもの。あとゲルッ、ハルトー!というデリコパンチに対する初めての反撃は控えめに言ってめちゃくちゃ可愛いかったです……理性は負けた…必殺技の名前かよかわいい…………
 それからどの舞台を見ても思うのが、アンサンブルの方々の多芸さ。様々な種類のダンスを踊り、殺陣をこなし、細かな演技で色を添える。大袈裟でなく彼らがいないと舞台は成り立たないです。お名前がわからないので名指しで褒めることが出来ないのが本当に歯がゆいのですが、特に黒薔薇館の歌のシーンでのバレエダンサーさながらの踊りは本当に素晴らしかったです。これも円盤出たらじっくり見よう。



 と、ここまで触れていませんが実はダミアン・ストーン(コピー)の方の殺陣がいっちばん好きです。身が軽~い! 最高! って気分になりますし、回を重ねれば重ねるほど好きになりました。あれはバルラハに差しだすためだけの適当なダミアンコピーだったのかなとも思うのですが、それにしちゃあ魅力的です。
 バルラハはファルスと呼びながらも、彼なりにアンリのことを愛していたのかなあとかも考えます。彼の半生もまた語り始めたらちょっとした本になるぐらいじゃないのかと想像を膨らませるのも面白い。
 それからジャックちゃん! 私ジャックちゃんのことすんごい好きです。歌うような台詞回し、無闇にくるくる動き回る動作、頭のまわる邪悪なキャラクターは最高ですね。結果的にジャックがゲルハルトの窮地を救うことになるシーンで、「下々の者に頭を下げることはしない」という台詞はゲルハルト様なりの心ばかりのお礼の言葉なのですが、即座にその意を理解して「あぁん素敵ィ!」と痺れちゃえるジャックちゃんはめちゃくちゃに良いですよ。「あハッ、いヒッ、うフッ、えヘッ、おホッ」なぁんて戯けながらはけるシーンがいっとう好きです。傘の差し方がめっちゃかわいい。



 この後ダリは、フリーダ様がそう望まれたようにきっとラファエロの前では厳格な父であろうとしたのだと思います。ラファエロはウルと血が繋がっていないことを知っていたのか? いいえ、きっと知らなかったのではないでしょうか。ダリは決して口外しなかった。ウルはダリコ家のヴァンプとして育てる。家族や近しい者にはダンピールであることは勿論伝えておかなければならないでしょうが、それだってきっと自分の子だと伝えたはずです。
 でもフリーダ様にすらきちんと言葉にして愛していると伝えることをしなかった(できなかった)ダリですから、子供たちにも彼の愛というのは余り伝わっていないのかなと思います。グランギニョルを経てTRUMPでの親子のシーンを思うと何だかとても切ないですね。結局は切ないどころの話じゃないんですが。
 D2版でダリ・デリコを演じられた前山さんがグランギニョル観劇後に「これを見た後にダリを演りたかった」と仰られていたのが全然ピンとこなかったんですが、これも観た後になら少しわかる気がすると思いました。



 思ったとか感じたとか、結局全部(※個人の感想です)なのですが、だからこそ私は人の感想を読むのがめちゃくちゃ好きです。皆もっと、私が思うところみたいな話をもっともっとしよう! 私はまだ語り足りないです! 照明の話もしたい! 回旋するトラジェディが頭の中でずうっと回旋してる話とか! ダンスの倒れていく順番はやっぱりそうだったんですね!